SIKO FEATURED 特集記事
漏れる」という常識への挑戦
泥臭い探究心を糧に、袋の歴史が動いた

”副社長はシコーの大番頭であり、生き字引や。袋のことも何でも知っていて、何でも答えてくれるので、色々聞いたらええですよ。”
東京都千代田区にあるシコー東京営業所の前で、社長である白石の言葉を思い出した。
漏れないLABの第二弾として今回話を伺うのは、シコーの副社長であり事業本部長の前(まえ)だ。同氏は、1982年に入社し、シコー一筋で約44年。「漏れない」の最前線にずっと立ち続けていたと言っても過言ではない。まさにシコーの生き字引である。
「あれがシコーの歴史が変わった瞬間ちゃうかな。」
時折見せる笑顔と大きな声でシコーの挑戦の歴史を話してくれた。
常識を変えたい。「漏れない」袋を作る挑戦
シコーではどんな袋を扱っていらっしゃるのでしょうか?
前:まず、漏れる、漏れないというものは基本的に内容物によって決まることが多いとされています。我々が包むものは粉粒体と呼ばれるものが多いです。例えば粒体というものは基本的にオープンマウスで充填していきます。いわゆるドサッと袋に詰めていくわけです。しかし粉体は、オープンマウスでは充填できない(粉が舞ったり、そもそも袋に入らない)ので、吹き込み袋と言われるもので、充填していきます。
また粉体の中でも内容物によって漏れやすい性質の粉と、漏れにくい性質の粉と言われるものがあります。粉体と言っても建材セメントであったりとか、でんぷんや小麦粉などの食品関係、そしてピグメント(顔料)、カーボンブラック、シリカなどの工業薬剤もあります。
一概には言えませんが、例えば粉を手で掴んだ時に、指の間から掴んだ粉がスーッと漏れるものと、粉であるけど掴んだ時に固まるものがあります。小麦粉なんかは割と固まるようなイメージですね。
その中でも指の間から漏れるような粉っていうのは、当然サラサラしてる粒子が細かいものです。ものによっては煙とまでは言いませんが、そこまで細かいものも扱うこともあります。

粒子が細かいものほど漏れやすいということですよね?
前:細かい粉体を包む袋の多くは、糊貼りの両底袋と言われる形態の袋になります。しかし、この両底袋は、昔からある袋です。むしろ我々は、福島工場に両底袋の設備を導入したのが1997年ですので、実はかなり後発なんです。
業界的には後発なのですね。当時の袋はどんな感じだったのでしょうか?
前:両底袋に限って言えば、昔から小麦粉や石灰、カーボンブラックなど様々なものに使われていました。しかし、実は昔からそういった袋は漏れて当たり前。そもそも袋自体を機械で作っていましたので、どうしても漏れてしまうという感じでした。しかし、そんな中でも漏れない袋というのはありました。手貼りの両底袋です。
機械で作った袋はどうしても折り方や糊の貼り方が単純になってしまいます。一方で手作業の場合は何層にも重ねる事もできますし、糊の貼り方にも工夫を凝らせます。
しかし漏れないために手作業でやるということは、生産量が限られてくるわけです。人間がやるわけですので、非常に納期も不安定になりがちですし、ずっと同じ人がやり続けるわけにもいかない。だから多少漏れていても安定供給と納期の問題で機械を使うことが多かったというわけです。
そこで我々は、そんな常識を変えたい。漏れない袋をどうやって安定供給していくことができるのか。機械貼りでも手張り同等の袋は作れないのかと考えたところが、シコーの「漏れない」袋のスタートになっているんです。
手貼りを機械貼りにしていく、福島工場の挑戦の物語
ノウハウも経験もない、あるのは熱意と高い技術だった。
機械で手作業のような糊貼り、漏れない袋を作ることができるのかという挑戦が始まったわけですね。
前:そうです。そこからは挑戦の日々でしたね。さらに言いますと、そういうニーズは必ずあると思っていましたから、そこをターゲットにやっていこうと。
実際にどのようなことをされたのですか?
前:それをお話しする前に少し福島工場について触れた方がいいかもしれません。福島工場に初めてボトマー(※1)という設備を入れたのは、業界的には遅いほうでした。それ以前に福島工場では、ボトマーを使っての紙袋の生産っていうのはほとんどありませんでした。
それまではPP樹脂袋と言われる袋を主に製造していました。そのPP樹脂袋もだんだん使われなくなって、紙袋に代替され始めてきました。
要因は様々あるのですが、主には米輸送形態とか包装容器の変遷が大きいですね。我々はこういう容器の変遷というものはついてまわるものです。
その中で本当に福島工場の主力商品であったPP樹脂袋がいつか必要なくなる日が来るのではないかと思っていました。
そうなると、PP樹脂袋しか作っていないため、工場を閉めてしまうのか、なにか新たなチャレンジをしていくのか。しかし、簡単に工場を閉めるわけにもいかない。当然工場で働いている人たちも多くいますし、雇用を確保していかないといけない。
その時に今の相談役(当時の社長)とも色々話をしました。それが2001年頃だったと思います。そして、最終的には2004年にはPP樹脂袋は撤退し、福島工場は紙袋の製造を主にしていくことになります。

紙袋への移行を決めたものの、当時は業界全体で出荷量が減っていた時期。難しい決断でした。しかし、両底袋に限っては需要が落ちていないことに気づいたんです。
とはいえ、東日本には設備がない。本来、確実な受注の見込みがなければ設備投資なんてできません。それでも福島工場は、勝算もないまま投資に踏み切りました。「業界の需要は落ちていない」という事実だけを頼りに、自ら市場を切り拓く覚悟を決めたんです。
その中でどうして福島工場で設備投資に踏み切ったのですか?
前:今思えば、本当にチャレンジでしたね。設備投資をしたのはいいけれど、顧客の見込みはない。だからこそ、自分たちで袋を売っていかないといけないと強く決意したことは今でも覚えていますね。設備投資は大きな投資です。しかし、価格勝負にしてはいけない。安いからではなく、シコーとしてどうしていくのかということを考え続ける日々でした。

その時にターゲットにしたのは、手貼りから機械貼りへの置き換えというのを切り口にしていこうということです。
福島工場で働いてる人はこれまでPP樹脂袋の製造が主でしたので、紙袋の製造はやったことはありませんでした。まさに同じ会社にも関わらず、別会社に転職したようなものでした。本当に福島工場のみんなも大きなチャレンジだったと思います。
その中でも福島工場の情熱と技術はすごかった。もともとPP樹脂袋の製造は24時間稼働していたんですよ。夜中でも機械を稼働させて、サーキュレーターを回して。なので、機械が故障したりすると自分たちで直さないといけない。機械に対してのメンテナンスや稼働に関しての意識が非常に高い人たちが集まっている。そのため、紙袋という新しい機械に対しても非常に強い熱意と高い技術を発揮していただいたと言っても過言ではありません。
後編に続く
※1 ボトマー
両底貼機(りょうぞこばりき)